ToMoNoRiの日記

発達障害のアスペルガーに悩む男

働くことの流儀として

労働とは対価として報酬がある。また、なんでもない、単純な理由として、

働からずもの食うべからずということわざのように、昔から、労働とは

人間の基本欲求を満たすために必要なお金の稼ぎ方として、老若男女

のある種、生き方のテーマの一つである。

そのテーマにおける、僕なりの流儀とは、なんだろうか?

基本僕は、怠け者の部類に入るほど、「働いたら負け」組に近い存在である。

でも、そのままにしておけば、自分との価値観が違うことの存在として、

負けない人もいるから、らしく働くことの本物の意味が問われそうだ。

もし、なんでもいいから、労働としての恥じらいとして、なにかから逃げたい

衝動に駆られて、いきなり自分とは違う人の労働観を見破ろうとして、文字

どうり観察のみの見ているだけの姿勢の持ち方なら、のっけから、最後まで

自分の仕事として、意味をはき違えてしまうことの恐れに悩みぬき、自分を

いじめてしまうことの仕事にに対する取組みの組み立てかたが、出し抜いた

方法論になってくると、思いのほか、他人の仕事ぶりが気がかりになっていき、

自分がやっている仕事に誇りをもてなくなるとおもう。

だからこそ、自分とは違う考えの人の意見をどうとらえることができるか?

僕はこうやっていきたい仕事がある。のに、人はもっと違う感じの仕事の

持ち場所がある、それは仕事の内容がいかにおもしろいかという、感じることの

すべてが、仕事観になって自分の立場を証明できるかのように、いきごんで仕事

に悩むことの本質理解の求め方が、キャリアとしての実質的証明があるないなんて

あたかも、僕の考えにあっても周りのひとは、その証明に感じることのうちの

ほんの一部しか、理解しえないことのちっぽけな自慢にすがっているだけに

すぎず、仕事の流儀として、自分だけしかわからないことだけで、仕事するよりも

だれでも分かる仕事にするため、その仕事を通じてだれでも分かる自分を仕立て

上げるために頑張ることである。

 

「会社で一番の功績は良いことだが、会社で唯一の仕事が皆にとって

良いことに感じることの仕事の伸びかたは、会社にとって小さな喜びである。」

 

天使3

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