僕が感謝していることの本当の気持ちは果たして誰が知っているのか?
人はひとたび自分の感情にほころびを感じて、なおさらのこと、感謝の
念にありがたき幸せを感じる。
無意識のうちに潜在的に起こる悟りの気持ちに、あまり滑稽さなんて
苦難の受け止め方にありえる、自分のかんじたままの気持ちの感想に
どこのだれかが、いきりかえしてくるとか、自発的な約束のような
戒めとしての、じぶんのなかの独特な解釈のなかに、今思うことの
すべてが、あるがままになることの、何人たるかわからぬ、先人の
試みがある。
苦しとはすべての悟りのなかにある、ゆゆしき秘め事ではなく、おおぴら
なこころの励みのさまが、いずれお釈迦様の内心の輝きにたいする、
権化のような、自然にならうことの神羅万象が、気負わせることなく
さらりと舞い落ちるはなびらのような、はかなさのなかにも、命と
いうのはまた、思いの感じが変わるのではなく、一律のお褒めとして
万物の行動のすべては一生のなかの理由として、人は自分のことを
一つの命として、大事にしなければいけない。花とて虫とて動物とて
今、一生けん命生きている姿をお天道様にちゃんと見せることが、恰好
としてみじめでぶざまであじけないという苦しみのなかに、仏陀は
厳しく自分を磨くように、勇ましくおらずとも、人間らしく生きている
ことを、仏の悟りとして、みまもられている。
たとえ、まがったものになりそうなものでも、まっすぐにしてみせる
こころの感動が、久しく感じる仏陀と感じる恩恵への思い。
「自前の服があらかた着終わった、古い服ならば、捨てるももう一回着て
みるのも自分次第なら、あなたの気持ちも一緒、ある程度理解できた
から、その考えが古いだなんて、心無いことだ。」