何かにつけて、臆病な自分の関心の低さは、いつも、自分がおよび違いに思うことの、
始まりの文句は、いつも「まあ、あの、そうですね」といった、常套句になる。
逃がしたい気持ちの裏には、大概のことは真に受けていることであり、自分次第で
自由に返答できる、言葉の危ぶみに思う。
いつ、何時にじぶんらしく答えることのない、自分のはにかみは、期待どうりに
帰ってくる返答のいかんが自分との冷静さの駆け引きになって、僕はどうなんだろうか
と思っていても、自由に感じえない、わだかまりも感じない、平たい臆病の感覚は
自分がいつも思っている、「こんなに言えたらどうだろう?」という言葉の鳴かず飛ば
ずの自分の阿保さ加減がいつも、気になる。
臆して気分をうかがうことの自分の考えの中途半端さが、自分にたいする、疑いになる
なら、自分の配慮にたいする、憂き目のない自分の反して思えない感情の中身が
意味心なら、ないがしろになってくる、人とのかかわりかたにおいて、広がりが見えな
くなってくる。
それが、臆病な自分の心であります。