ToMoNoRiの日記

発達障害のアスペルガーに悩む男

傷つきに対する癒しとは

何かの拍子に傷ついたことのある人間は、ある程度理解できること。

つんのめって自分に背負い込んだ心の傷は、いとも簡単には癒せない。

例え、なにかの特効薬を求めるがごとく、人を頼っても、所詮は他人のこと。

自分が思いつめた原因がわかっても、傷つきに対して、もろくも、崩れ去りそうに

なっていくことの愚かさたるや、はた目からみても、どうにも絡みにくいことは

事実であると思う。

もしかしたら、自分だけが、この傷と一生向き合っていかねばならないのか?

昨日まで、さほど気にならなかった思いのすべてが、重く自分の傷に突き刺さる。

一体、何が僕をここまで、追い込むのか?

全て、わすれてしまえばいいのに・・・・。

苦しい、にがい経験が自分を苦しめるのは、ここまで、追い詰めた、我が身

の弱さゆえか、生来の気質か、自分が自分に愛想をつかすのか?

自分の計らいの失敗か、あるいは、傷つけられた人への報復か?

自分の選択がいかなる結果を呼ぼうとも、自分の痛みは自分にしか返ってこない・・。

どうせ、自分なんてこの程度のものと、決めつけても決めつけにならない、向き合う

ことの恐怖感は、傷ついた時の流れが長いほど、忌々しくも汚くも、自分を羽交い絞め

にして、どうにも、もがけないほど苦しめる。

もし、一生にもう一度があるのならば、自分なりに取り戻したい傷つきの無かったころ

の自分はどれだけ素敵な人生を送っていただろうか?

それでも、また、同じことに傷ついてしまうのだろうか?

だから、同じことを繰り返し避けてしまうのか?

もう、余計な事をしたくない、だって、いつものことと自分を押し殺してしまうから。

自分をださないでいると、いつもらしからぬ、傷ついたことのないふりができるから。

もう少し、こうしとけばよかったなんて、後悔や懺悔も通用しないくらい、もう

たくさんだ。

今に見ていろと周りを呪ったって、死角に入って見えてもしない。

自分の存在が色々と煩わしいかうっとうしいかと、人の顔色を気にする。

気に入られようとすると、ことさらに、自分の傷がうずく。

機械仕掛けのような日々になってくると、妙に癒されたくなってくる。

自分として同等に値する、見返りも求めたくなってくる。

自分が背負った傷が、癒えない傷だと思えることに、抵抗感がなくなり

至極当たり前のようになってくる頃に、終わりの様な夢を見る。

体の端々に落第者の刻印のような痛みと動揺が走り周り、まるで悪魔に誘われたかの

ように、地獄を意識する。

それでも、人々は、自分の傷つきがなんであるかのように、生きれている。

そのわだかまりの前に、自分は恐怖して、眼前の哀れに涙を浮かべる。

「ああ、もう少し理解してほしかった。」

そんな言葉に酔うと、情けなくも、自分の命など、幾分かの価値もないと

この世とおさらばしたくなる。

のこぎりで自分の首を切り落として、顔ごと自分の足元に落ちても

自分は自分の顔を見れない。

残った胴体がもろくも倒れていく様をまじまじとみせつけられること、

こんな、みじめなことあっていいのだろうか?

空白のときは、なるべく、じっとしている、そして、時の流れに身をまかせ

自らの心の傷が治っていく術を、だれからも習えずにいるのみの、時間だけ

でも、自分がそうありたい自分であってくれたら・・。

砂漠に彷徨って、オアシスを探すような、血眼の心も、所詮、傷の手当も

してないだけの、徒労感に終わる。

希薄な空気のなかで、自分の呼吸が見えなくなるまで、自分のことを観察する

ことの味わい深い苦しみの境地は自分らしからぬ、自分らしさとして、思惑とうり

に実行した、自分の支配なのだ。

そんな遠のいた自分の簡単な恥のぬぐいかたに、なんにも得たことがないかの如く

傍観者になりたがることの己の無様さに、ぬぐえない恥が重くのしかかる。

 

いかれてるほど自分の頭の中身が変に感じることの悩みには、幾分かの傷に対する

途方もないことの繰り返しに思う、我が身の変身願望があるような。

あきらかに、以前の自分とは違うと思いえるような、僕らしい傷の癒し方。

それは、いつしか自分が思っていたころに、傷ついたことに対する思いのほか

混同しやすい自分の合わないことに対する無理強いが、いけないことだと気づけた。

自分らしいことをただ一つ、前向きにがんばること!!

問題の傷は触れない傷として、もう一生むきあうことはないのだと、自分の衝動的

な無理に付き合わない形で、自分との方向が一致することのありがたみが、自分の

傷の治し方だと思った。

傷ついた天使

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