ToMoNoRiの日記

発達障害のアスペルガーに悩む男

怒りと憎しみがテーマになる踏み絵のことにキリストはどう思いえるか

真実とは多分にドラマチックな事柄に、展開があってなお、時空のひずみ

のような、愛情のたぶつきが見え隠れする。

キリストがマリアに教わったことはなんなのか?

「人がこよなく人の子ならば、君は神の子として何をしえるか?」

僕ならば、今宵の晩餐の会話として、愛された心のうちのときめきを

慈愛の感情として、あえて、母マリアに突き放されたのかと思うだろう。

真実はそこになんかしらの永遠のテーマを浮かばせる。

「今、なんどきであり、いまなお、苦しむ人びとに対する行為の値が

救済としてのあなたマリアの思いならば、私キリストは生きることの無常に相対する

究極の愛を神に得たのだ」

もしも、愛の不変が天に通じないと、人の気持ちの迷いや曇り空のなかの孤独の旅に

思う人のあがらいのなさに、憎しみや怒りが伴うのなら、キリストは慈愛にたいする

感情の間に自分と神との歓談として、天にむかって仰ぐように祈るはず。

「そうだ、私は生まれながらキリストとして生まれた、死にゆくときまで

は神の導きのもと、神のもとに迷う子羊に対する導きを、迷いのありかとすべくイエス

はいるのだ。」

禁断の果実を食べたアダムとイブは人間として地上に落とされた。

そんなことに、人間は生きることの感情を出し抜いてまで、生きることが

運命としてわが身にやどる、不覚の感嘆の美しさは、いずれ秀でた人間の英知

として語られる、人間の軌跡なのだ。

恐怖はやがて去っていくが、人間がそれを食い止めることはできないとおもうなら

自然と触れ合う人間のあからさまな本心のなかに、実も嘘も簡単にひっくり返す

悪としての善へのあきらめが正せない人間の憎しみと怒りなら、十字架に乗った

キリストの本当の気持ちは、「混沌と重圧と仮の世界に本当のヘブンが存在する

それは、私、イエスキリストの思いではなく、人々の心の灯である」

 

きっと、聖人だって思いえる、自分への信じる心にたいして、人は踏み絵のように

試されることなく試しえる自分のなかの恐れにたいして、直にふれても、声高に

汚くなっていくマリアへの遠い羨望がキリストのマジックである、奇跡を呼ぶ

ことに、人はきっと感じることのできることの思いを告白して、許されること

の愛に自分がふれることに、感謝して怒りや憎しみに帰らせない思いの術を

十字架に思う、きれいな気持ちの心得は行いのなかのほんの一瞬のデリケートな

人に対する、なんらかの施しの気持ちでいいのだ。

 

「感謝しているうえ、感謝されてもないことに、あくなき態度の変わらなさは

きっと、いい季節に帰るときの冬の最後、やがて春はきて、慈愛の

気持ちが収まらず、人に対する思いは変わることのない永遠の

同じことの繰り返し。」

エスキリスト

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