なりたい自分になること、それは、今自分がどういう人間であるか?という
指標のような物差しに計ったような、自分がどう変わっていけるかなんていう
ことの変化の楽しみがあるような気がする。
現状の自分に満足できてないという意味では、ある意味、高崇ではあるのだが
形だけの自分に見え隠れする、本当の自分に気づけていないという、自分の
気持ちの変化に例えようない、隠し味があったとしても、そのスパイスにこだわり
すぎて、自分のことばかり優先することの代償は、人も同じように変化していく
ことの、関わり合いのなかで、順位付けしていることの悪態の中身が、さらけ
だされていくことの、報復感を感じてしまい、とても、気持ちがいいものじゃない
と感じてしまう。
行き過ぎても、遅すぎても、自分は自分と開き直っているときにでも、自分以外の
誰かが、人の気持ちを感じて、十分過ぎる、時の過ごし方をもっている、意外な
充実感を感じて、なりたいようにというか、あるがまま、生きたいように生きている
のかもしれない。
それに習ってでも、合わせていくことのほかに、自分が変わっていけているという
実感を感じることはたわいもないことで、自分ばかりが変わっても意味がないよう
な気さえする。
人間は
環境に合わせて勉強を重ねていくものだし、失敗もしたりする。
だからこそ、同じ顔ばかりせずに、適度に違う顔も見せてみようと思えるような
気がする。
挨拶とか返事とか質問とか、周りに示すことの変化の兆しは、きっと、人は敏感
にとらえていて、きっちりそれに合わせてくれている。
だから、周りの変化に慌てず、合わせてみるのも、自分らしい、生き方に思えた。