本当は私は自由に時間を持っている。
自分が欲しいだけの時間なら、ほんの少し、持て余している。
それは、自分が欲しいだけの時間に、値する、十分な気持ちのほどけ
余裕が妙に欲しいときの、じわりとくる、惨憺たる、言葉のなさ
そこに、妙に、期待している、空間のありかの、孤独の無さ
自分がとてもいとおしい幾何学なありがたさだ。
愛し合いたい心のほんの、つじつまのありかに、期待している自分の心の動き
それは、一瞬のクリアな感覚であって、みすかした、楽観的人生観ではない。
本当はこうだったとか、時間的に無理だとか、ないがしろにできない意味のごろ合わせ
なーんちゃって調の暗い気持ちはもうない。
本当は自意識の遊びに思っていた、判断の中身は、自信のありかに
究極の傲慢を愛に変えた、自分の感じ方の駆け引きにある
一瞬の間違いに過ぎない。
燃え尽きそうな心の壊れ方は基本的には、充実感の後退感である。
もうこれ以上ないぞっていう感じの妄想の答えが、感じている以上の
答えを期待しているから、理想的に考える我の感じのあらん様に
悩む、まっとうな記憶の中に、じっと見据える心の安生の間に
自分は期待している。
もう簡単に思っていても、実際には自分にはありえない行動の愛想に
読めない相手の姑息感は本位のままに相対する度量のありかに
自分は悩む。
僕は僕でいいのなら、娯楽に近い、普段の感情はどこに向かうのか
期待しているよりも、簡単でいいのだろうか?