今日は一日なにをしようか?それは、いきなり感じる朝の感じのなかでおもう
気の晴れることへの期待感か、あるいは、どうしようもない、人間の安心感の
高まりかもしれない。
もしも、自分が思うとおりの楽な答えで終始自分がいれるのなら、自分が意味も
なく自分に感じ入る自分のふがいなさに自分がおもいえる、深い思いのなかの
自分の悲観的な考えの支配に及ぶことない、自分の攻撃的な案外な自分の不安
のなかにでも、自分の及ぶことのない、いかんともしがたい、イメージの感単
さが、いきなり思うことのソフトな自分へのいたわりになってくる喜び。
それこそが、昨日まではこうだったがとか昨日はなんだかというあとを引いている
自分のなかのぎこちなさからの解放感につながると思う。
昨日までは、自分はこだわり続けた自分の簡単なことに対する、気付きに、じぶんが
遅くともこの辺まで気づけていたのに、自分がいい加減に思えた、昨日の些細な出来事
が、他人まかせの自分であったかのように、昨日また自分に感じた今日の自分は、
行くにせよ行かないにせよ、自分がそういう時のまま止まってしまっているかのように
自分との今の向き合いのなかに、ちらほらしてくる、自分の内心の嘘に近い、自分の
虚像のなかの構えのありかたが、ふっと消えて、ナチュラルでふわっとしてて、なんだ
か、天国にいるような気構えのなさがある。
人に対する思いは、そこに、舞い降りてくる、なんだかうれしい、ときめきみたいな、
気分の落ち着きをくれる。
きっと、昨日までの自分は言っているだろう。「自分がなんだか変に気を使っているか
ら、周りもそれにつられて意気込むような気になることさえある」
でも、自分が昨日の自分にたいして、思いのほか、自分としてかんじることのすべては
ほとんどが、昨日とは違うということを知っておきたい。
それが、今、自分が向き合っている人生であり、一人では生きていけないことの感謝と
ともに、自分が思い描く今日はほんとに自分のフレッシュな感じ方がよくて、また明日
の自分に何が言えるかの想像は、新鮮な気持ちの答えとして、自分の心にしみてくる
渇望の中身なんだと思う。
「よく澄み渡る空にあこがれて、自分の心を感じるままいることの、自分の心の
愛し方は、きっと、自分が空の明るさにたくさんの自分の思いが満ち溢れてくること
に思いえる、同系色として、はたまた、ブルーに思う、自分のちっぽけさ」