私が今の自分に感じることのできない、重い話のなかで、人が死ぬ際に見る走馬灯。
自分が死んでしまうと思う時に見ると言われている。
段階を踏んで、過去の経験のなかで、感慨深いものや思い出のなかにある断片的な
いい思い出なんかがきらびやかに見えるのだろうか?
もう、思い残すことはないと人が感じる瞬間感たる極に、あながち決まった感じの
後悔は侮れないなにかの重圧からの解放なのか?
もし、未曾有の大災害が襲ってきて、人があっさりとそれに屈した形で、人に死を
一瞬で覚悟させるなら・・・。
その人の覚悟を見て、違う人が思う。「どうか、やすらかに行ってください。」
その思いのなかに、人は現世と違う世界に行くことの覚悟の証明として、この世と
の関わり合いの全てを断ち切ることにその人の思いを楽にさせたい心の穏やかさを
知るときに、走馬灯のような幻想的な世界を見るのだろう。あの世には極楽が存在する
のなら、そこにたどり着くために、人は何かしらの人生のいろはを捨てることが必要だ
とおもえる。
こういうときにこそ、いざ、自分が試されているという思いを、これから、まだ、人生
を生き抜かなければならない人にすべて託して、自分が築き上げた人生のいろはを忘れ
ることに、孤独は帰ってこないことになって、自分自身の価値観を浄化して、なお、
現世にたいする執着や思い残しを無に帰すのだろう。
もしも、今なお死んでいこうとする人は世界中にいて、その感覚は2秒に一人という
割合らしい。
実際死んでみないとわからないことだが、今度生まれ変わったらどうなりたいなんて
自分で決めれるのなら、思いっきり羽をのばして考えたいものだ。